ごあいさつ
創立者松前重義は最晩年、「あなたをして、今日あるをあらしめた最大のものは何だったと思うか」という質問に、ためらうことなく、「友情です」と答えました。今日ある学園の発展は、松前一人の活動による結果だけではなく、松前の多くの仲間、そして各時代の教職員や学生たちの力によってもたらされたのです。
とりわけ、学園創設期の松前の盟友たちは「建学の同志」と呼ばれます。松前の官僚時代の先輩で学園創立構想の発起人にもなった宮本武之輔や梶井剛。松前を常に献身的に支えた篠原登。文理融合を標榜する学園の文化面を担った足利惇氏。存命中は学園のほぼ全ての校地・校舎の設計・建設にあたった山田守。学園解散の危機を救った濱田成徳。松前の郷土の後輩で学園の教育に注力した牧野不二雄。また、望星学塾の大久保眞太郎や、松前の伴侶で「学園の母」と呼ばれた松前信子、松前の大学時代の恩師抜山平一など、学園の創立・存続・発展に、松前と共に力を尽くした多くの仲間がいました。
今回の展示会では、松前重義と建学の同志たちに焦点をあてて、松前の活動と学園史を振り返りながら、松前と建学の同志たちとの出会いや関係性、今日の学園にどのような役割を果たしたか、どのような理想を胸に学園創設に携わったか、その活躍や松前との友情などについて紹介していきます。
序章
東北帝国大学卒業まで
松前重義は熊本県上益城郡大島村(現・嘉島町)に生まれ、小学校5年生のとき熊本市に隣接した本庄村(現・熊本市中央区本荘)に移り住みます。生まれ育った農村と違って、市街地では夕方になると一斉に電灯がともりました。その驚きがのちに電気工学を学ぶきっかけになりました。
そして県立熊本中学校(現・熊本高等学校)から熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)、東北帝国大学(現・東北大学)工学部へと進みます。松前は、中学時代に兄顕義の影響から始めた柔道などのスポーツに熱中しました。その一方で、大学では卒業研究で電磁気学の権威である抜山平一教授のもと、後のトランジスタやICへと発展する真空管の特性について研究しました。
第1章 就職と聖書研究会、そして結婚
逓信省入省と内村鑑三聖書研究会へ参加
松前は大学卒業後、国の事業に携わりたいと希望して逓信省(現在の総務省、国土交通省航空局、NTTおよび日本郵政)に技官として入省しました。しかし、役所の生活は無味乾燥で事なかれ主義がはびこり、思い悩んだ松前は内村鑑三の聖書研究会に通うようになります。内村は無教会主義を唱えたキリスト教思想家・教育者で、松前は内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。
その研究会でプロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィ(1783~1872)が提唱する国民高等学校(フォルケホイスコーレ)のことを知り、そこに教育の理想の姿を見いだします。国民高等学校の教育は、教師と学生が生活をともにし、自由に社会を論じ、哲学を語り合う活気に満ちたものでした。これが生涯を教育に捧げようと決意し、望星学塾を開設するきっかけとなりました。本学の原点がここにあります。
この内村鑑三の聖書研究会をきっかけにして、濱田成徳という知友を得ました。
森信子との結婚
このころ、松前には大きな出会いがありました。妻となる森信子との邂逅です。逓信省次官を務めていた桑山鐡雄は、中学1年生の長男の家庭教師を松前に任せていました。この桑山夫人の妹が信子です。信子は1923(大正12)年9月1日の関東大震災の影響で、日本女子大学を2年次で退学していました。そうした折、桑山夫妻が松前を気に入り、信子を紹介する運びとなったのです。
正式に見合いの話が持ち込まれ、松前に頼まれて見合いに同席した義兄本田傳喜牧師は、信子を大変気に入って松前に結婚を勧めました。1926(大正15)年5月1日、松前と信子は本田が牧師を務める東京・東大久保教会で式を挙げました。結婚の記念に松前が信子に贈ったものは、一冊の聖書でした。信子は一生懸命に聖書を読むようになり、日曜日には松前と一緒に内村の聖書研究会に参加するようになりました 。
松前と信子は聖書を座右に置きつつ、ともに人生の苦難を乗り越えていくことなったのです。
松前信子
生没年 | 1904(明治37)年4月7日 ~ 1990(平成2)年8月22日 |
出身地 | 鹿児島県鹿児島市 |
来 歴 | 教育者。鹿児島出身で代々島津藩に仕える医家に生まれる。1926年5月1日、松前重義と結婚し、内助の功に努めた。 |
- 松前との出会い
松前が逓信省に入省したころに逓信省次官だった桑山鐡雄の妻の妹が森信子でした。松前は桑山から中学1年生の長男の家庭教師を仰せつかり、休日などに桑山家を訪れるようになっていました。そこで桑山夫人が妹の信子を、松前に引き合わせることになったのです。信子は松前について、「主人をはじめて見たときの印象は、とても立派な体格のひとだということでした。」と述懐しています。やがて正式に見合いの話が持ち込まれ、見合いに同席した義兄の本田傳喜牧師の勧めもあり、婚約しました。
- 学園での活躍
松前との結婚後、ともに内村鑑三の聖書研究会に通い、内村の死後、夫や篠原登、大久保眞太郎らと松前の自宅で開催した「聖書研究会(教育研究会)」に参加しました。この研究会が望星学塾に発展し、東海大学の源流となります。戦中・戦後の苦難の時期には松前と学園を陰で支え、学生の面倒を見るなど、「学園の母」として学園の発展に貢献しました。
松前信子略歴
年 | 事 項 |
1904(明治37)年 | 鹿児島県鹿児島市で生誕 |
1922(大正11)年 | 日本女子大学に入学 |
1923(大正12)年 | 関東大震災を機に日本女子大学を二年次で中退 |
1926(大正15)年 | 松前重義と結婚。重義が長崎郵便局電話課長に転任、ともに長崎に至る |
1927(昭和2)年 | 赴任先の長崎で長男達郎生まれる。重義が逓信省工務局に帰任、東京・杉並に居を定む |
1931(昭和6)年 | 東京・阿佐ヶ谷にて二男紀男生まれる |
1935(昭和10)年 | 東京・武蔵野にて三男仰生まれる |
1962(昭和37)年 | 重義をガイドに欧米を旅行 |
1990(平成2)年 | 東海大学医学部付属病院にて逝去(享年86歳) |
第2章 無装荷ケーブル通信方式の開発と望星学塾開設
無装荷ケーブル通信方式の開発
20世紀はじめの通信技術の課題は、より遠くへ、より速く、より大量に情報を送ることにありました。電話通信の分野では、アメリカ・コロンビア大学のピューピン教授が開発した装荷ケーブル方式が世界の主流でした。これは、電流の減衰を防ぐため電話ケーブルの途中に装荷コイルを挿入するものでしたが、この方式は音声が不明瞭、1回線で1通話しかできず不経済であるなど、様々な欠点がありました。
そこで松前は、逓信省で後輩の篠原登らとの研究成果をもとに、既成概念にとらわれることなく装荷コイルを使わず、長距離ケーブルの途中に増幅器を設置して電流を増幅させ、高周波の電流に音声を乗せて送る新しい通信方式を開発します。これは、装荷ケーブル方式の欠点を一気に解決し、しかも1回線で複数の通話ができる多重通信を可能とする経済的なものでした。これが世界的にも有名な無装荷ケーブル通信方式です。この技術の国産化を後押しした上司が逓信省工務局長の梶井剛でした。
1933(昭和8)年春、松前が無装荷ケーブルの実用化に向けた実験に取り組んでいる最中、1年間のドイツ留学が命じられました。無装荷ケーブルの実用化のめどが付き次第、教育事業に転身するつもりでいた松前は、一旦は断りましたが、梶井の配慮でデンマークの視察が認められたため、留学することになります。念願のデンマークで国民高等学校を訪問するとともに、欧米各地の視察を行い、幅広い知見を得ることができました。この時、フランス・パリで出会ったのが足利惇氏です。
留学から帰国後、国と民間企業が協力する国産プロジェクト研究によって無装荷ケーブルの実用化が進み、1939(昭和14)年に日本と中国、約2,700キロの間が結ばれました。その後、この通信方式は世界の主流となり、今日の情報化時代を開くきっかけとなったのです。
篠原登
生没年 | 1904 (明治37) 年11月27日 ~ 1984(昭和59)年10月16日 |
出身地 | 静岡県静岡市 |
来 歴 | 逓信官僚、科学者。初代科学技術事務次官。逓信官僚として松前の4年後輩で常に松前を支えた。松前とともに画期的な「無装荷ケーブル通信方式」を発明。衆議院議員でもあった松前らの運動によって設置された科学技術庁の初代事務次官を務めた。また、上皇明仁陛下が皇太子のころ、科学技術についてご進講していた。英世学園理事のほか、学園においては常務理事・副理事長、東海大学工学部長・事務局長・大学院運営委員長や学長などを歴任。 |
- 松前との出会い
篠原は、1929(昭和4)年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省工務局電話課に入省しました。翌1930(昭和5)年に松前の発表した無装荷ケーブル通信方式に共鳴して、研究に参加したことが出会いとなっています。さらに、幼少からクリスチャンでもあった篠原は、松前の聖書研究会、望星学塾創立にも参加して、松前の片腕として、その中心的な役割を果たしました。松前が東條内閣を批判して、二等兵として召集された時も召集解除に向けた運動を行い、戦後、衆議院議員であった松前を中心とした運動により設置された科学技術庁では、初代科学技術事務次官を務めるなど、公私にわたり常に松前を支えました。
- 学園での活躍
本学の母胎で、1936(昭和11)年に開塾した望星学塾においては塾監でした。1942(昭和17)年に松前らが発起人となり学園を創立するときにも参加・協力しています。1943(昭和18)年1月には、松前らとともに学校建設予定地の視察にも同行するなど、松前の刎頸の同志として陰ながら学園創立・運営に尽力しました。松前が公職・教職追放中の1950(昭和25)年に学園理事に就任し、濱田成徳を支えて解散の危機にあった学園を存続させています。1954(昭和29)年 には、東京移転計画が進む中、工学部長に就任しました。
衆議院議員でもあった松前たちの運動よって設置された科学技術庁が設立されると次長(のちの事務次官に相当)、初代事務次官を務めるため一時学園の運営から離れましたが、 1961(昭和36)年 に工学部教授として学園に復帰します。 湘南校舎を開設し発展する大学を1965(昭和40)年に事務局長として、 1967(昭和42)年 には拡大する学園の副理事長として、松前の学園・大学運営を支えました。 1971(昭和46)年 には大学院運営委員長、 1975(昭和50)年 には学長に就任し、これら要職を歴任した多大な貢献により 1980(昭和55)年 に名誉教授の称号が贈られました。
- 関係資料
篠原登略歴
年 | 事 項 |
1904(明治37)年 | 静岡県静岡市で生誕 |
1925(大正14)年 | 水戸高等学校を卒業、東京帝国大学工学部入学 |
1929(昭和4)年 | 東京帝国大学工学部 電気工学科卒業、逓信省入省 |
1940(昭和15)年 | 浜松高等工業学校教授、逓信省工務局調査課長、東京工業大学講師に就任 |
1943(昭和18)年 | 通信院工務局調査課長に就任 |
1944(昭和19)年 | 東京帝国大学第二工学部講師に就任 |
1945(昭和20)年 | 通信院工務局長(~1949年)、逓信院電気通信技術者資格検定委員長に就任 |
1946(昭和21)年 | 逓信省特別復興本部長、逓信省回線統制本部長に就任 |
1947(昭和22)年 | 逓信省電気通信施設事務所長、同省超短波施設建設部本部長に就任 |
1948(昭和23)年 | 逓信省東新聞超短波建設部長に就任 |
1950(昭和25)年 | 電気通信大学教授(~1952年)、学校法人東海大学理事に就任 |
1952(昭和27)年 | 電気通信協会専務理事に就任(~1956年) |
1954(昭和29)年 | 東海大学工学部長に就任(~1956年) |
1956(昭和31)年 | 科学技術庁次長に就任 |
1957(昭和32)年 | 科学技術庁事務次官に就任(~1961年) |
1961(昭和36)年 | 東海大学電気工学科教授に就任 |
1963(昭和38)年 | 東海大学大学院工学研究科教授に就任 |
1965(昭和40)年 | 東海大学事務局長に就任 |
1967(昭和42)年 | 学校法人東海大学副理事長に就任 |
1969(昭和44)年 | 東海大学大学院工学研究科委員長に就任 |
1971(昭和46)年 | 東海大学大学院運営委員長に就任 |
1975(昭和50)年 | 東海大学学長に就任(~1978年) |
1980(昭和55)年 | 東海大学名誉教授号を授与される |
1984(昭和59)年 | 東海大学医学部付属病院にて逝去 |
梶井剛
生没年 | 1887(明治20)年7月20日 ~ 1976(昭和51)年10月9日 |
出身地 | 宮城県仙台区(現・仙台市) |
来 歴 | 逓信官僚、実業家。工学博士。逓信省工務局長、日本電気社長、日本電信電話公社初代総裁、財団法人東海大学総長、東海大学初代学長、学校法人東海大学理事、電気学会会長などを歴任。その他、各社の取締役や相談役、各団体の理事・顧問・監査役などを務めた。 |
- 松前との出会い
松前が逓信省に入省後に配属された臨時電信電話建設局からの先輩技師で、松前曰く、「先輩というよりも、兄貴よりもっと親父格」でした。無装荷ケーブル通信方式の開発時は、松前や篠原の直属の上司として通信技術の国産化を推進し研究の助力をしました。また、官僚時代にゴルフ嫌いだった松前にゴルフを教えたのも梶井でした。松前のドイツ留学も梶井の推薦によるもので、松前を育て支えて後見したのが梶井です。
- 学園での活躍
梶井は、望星学塾創立では顧問として名を連ねています。また、宮本武之輔、松前とともに国防理工科大学の設立(学園設立)計画の発起人として、技術教育・工業教育の改善を唱えて学園創立構想に参加しました。財団法人国防理工学園(学園の前身)の設立では、理事に就任。戦後すぐの1946(昭和21)年、旧制東海大学開学では逓信院総裁の職にあった松前に代わって初代学長に就任しました。しかし、翌年には松前同様に公職追放になり、学長を退かなければならなくなりました。1951(昭和26)年、公職追放解除となり、翌年に学園理事として復帰。逝去する1976(昭和51)年まで理事として学園の発展に貢献しました。
- 関連資料
梶井剛略歴
年 | 事 項 |
1887(明治20)年 | 宮城県仙台区(現・仙台市)で誕生 |
1905(明治38)年 | 第一高等学校理工科入学 |
1908(明治41)年 | 東京帝国大学工科大学土木学科入学 |
1909(明治42)年 | 東京帝国大学工科大学電気工学科に移る |
1912(明治45)年 | 東京帝国大学工科大学電気工学科卒業、逓信省に入省 |
1923(大正12)年 | イギリス・アメリカ・ドイツに電気事業研究調査のため在留(~1924年) |
1926(大正15)年 | 早稲田大学理工学部通信工学科講師を兼務(~1936年) |
1932(昭和7)年 | 逓信省工務局電話課長に就任 |
1933(昭和8)年 | 東京帝国大学工学部電気工学科講師を兼務(~1937年)、逓信省工務局電信課長に就任 |
1934(昭和9)年 | 逓信省工務局長に就任 |
1936(昭和11)年 | 東京工業大学講師を兼務(~1937年) |
1938(昭和13)年 | 社団法人電気通信学会長に就任(~1939年)、逓信省を退職、東京帝国大学より工学博士号授与される |
1939(昭和14)年 | 社団法人電気学会長に就任(~1940年) |
1942(昭和17)年 | 財団法人国防理工学園理事に就任 |
1943(昭和18)年 | 日本電気株式会社取締役社長に就任(~1946年) |
1946(昭和21)年 | 財団法人東海大学総長・東海大学長・東海科学専門学校長に就任(~1947年)、 社団法人電気通信協会長に就任(~1952年) |
1947(昭和22)年 | 公職追放令に該当 |
1951(昭和26)年 | 公職追放令該当指定を解除、日本電気株式会社取締役会長に就任(~1952年) |
1952(昭和27)年 | 学校法人東海大学理事に就任、日本電信電話公社総裁に就任(~1958年) |
1960(昭和35)年 | 日本国有鉄道電子技術調査委員会委員長に就任 |
1976(昭和51)年 | 逝去 |
足利惇氏
生没年 | 1901(明治34)年5月9日 ~ 1983(昭和58)年11月2日 |
出身地 | 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区) |
来 歴 | インド・ペルシャ学者。文学博士。関東公方系足利氏で旧喜連川藩主足利子爵家当主。夫人は学園創立時理事であった有馬頼寧息女。京都帝国大学講師・助教授を経て、京都大学教授、文学部長を務めた。京都大学在職中、財団法人東海大学理事就任。京都大学定年退官後、東海大学文学部長、学長を歴任。日本オリエント学会長も務めた。 |
- 松前との出会い
1934(昭和9)年、ドイツ留学中にデンマークの視察からドイツに戻った松前は、ドイツでの下宿を引き払ってパリに入ります。そのパリで文部省の海外研究員として留学中で日本学生会館に宿泊していたのが足利でした。足利は、同館のロビーで卓球をしている松前と会ったのが最初だったと述懐しています。足利の専門は古代ペルシアの言語や宗教文化であり、松前とは専門を異にしていましたが、相互理解を深め、毎朝ともにデンマーク体操を日課とし、松前の視察に同行して通訳案内を務めるほどの間柄になりました。
- 学園での活躍
旧制東海大学設立にあたり、大学設置基準を満たすための文系図書の整備に尽力し、文系教員も足利が中心になって京都大学などから呼びました。また、文科・理科を合わせた全体の予科長に就任(兼任)しました。1948(昭和23)年に財団法人東海大学理事に就任。京都大学を退官した1965(昭和40)年から文学部長、1967(昭和42)年に学長、初代体育学部長、1970(昭和45)年には付属図書館長を歴任。学長として学園紛争で混乱する東海大学の鎮静にも努めました。1972(昭和47)年に文明研究所長、1975(昭和50)年に大学院運営委員長にも就任しています。東海大学設立の理念である文理融合の片翼を担う文系研究・教育の発展に尽力し、その功績から1981(昭和56)年に名誉教授の称号が授与されました。
- 関係資料
足利惇氏略歴
年 | 事 項 |
1901(明治34)年 | 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)で生誕 |
1919(大正9)年 | 東京府立第一中学校卒業 |
1922(大正11)年 | 同志社大学予科入学 |
1927(昭和2)年 | 同志社大学文学部英文学科卒業 |
1929(昭和4)年 | 京都帝国大学文学部講師(嘱託) |
1932(昭和7)年 | フランス、ドイツ、ペルシアに文部省在外研究生として在外(~1934年) |
1935(昭和10)年 | 京都帝国大学に帰学 |
1942(昭和17)年 | 京都帝国大学文学部助教授に就任 |
1946(昭和21)年 | 東海大学予科長に就任(兼務) |
1948(昭和23)年 | 財団法人東海大学理事に就任 |
1950(昭和25)年 | 京都大学文学部教授に就任 |
1962(昭和37)年 | 京都大学文学部長に就任(~1964年) |
1963(昭和38)年 | 京都大学総長事務代理に就任(~1964年) |
1965(昭和40)年 | 京都大学を退官、京都大学名誉教授号を授与される。東海大学文学部長に就任(~1970年) |
1967(昭和42)年 | 東海大学学長(~1975年)・同学体育学部長(~1968年)に就任 |
1970(昭和45)年 | 東海大学付属図書館長に就任(~1975年) |
1972(昭和47)年 | 東海大学文明研究所長に就任(~1978年) |
1975(昭和50)年 | 東海大学大学院運営委員長に就任 |
1981(昭和56)年 | 東海大学名誉教授号を授与される |
1983(昭和58)年 | 逝去 |
望星学塾の開設
松前はかねてから妻信子や松前の理想に共鳴する同僚で友人の篠原登、大久保眞太郎など数人の同志とともに集まり、教育や聖書の研究会を開いて、シュバイツァーやペスタロッチなどの人生・思想やキリスト教を研究していました。そして松前は、無装荷ケーブル通信方式の発明により、電気学会から「浅野博士奨学祝金」を受けると、これを基金の一部として東京・武蔵野の地に記念館を建築し、1936(昭和11)年に望星学塾を開設し念願の教育事業を開始しました。その活動は、デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育をめざすもので、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う、規模は小さくとも理想は大きく、活気ある学習の場でした。この私塾が今日の学校法人東海大学の母胎になったのです。
大久保眞太郎
生没年 | 1894(明治27)年10月20日 ~ 1965(昭和40)年3月8日 |
出身地 | 北海道 |
来 歴 | 逓信技師、教育者。英世学園理事。東京府立第四中学校卒業後、応召し近衛歩兵第一連隊配属。除隊後、逓信技手に従事。その後、逓信技師に任じられ、1945(昭和20)年に高等官四等に叙任されるも退官。戦後復興に際し松前構想に感銘かつ共感し、英世学園設立運営に尽力。 |
- 松前との出会い
松前と大久保の住宅が杉並区阿佐ヶ谷にあり、共に逓信省工務局電話課に通勤していたことから懇意となりました。松前、篠原らとともに聖書研究会に参加し、キリスト教に傾倒しました。松前は大久保について、信仰によっても結ばれる「長い間の心の友であり、真実の友であった」人物と述べています。また、松前が「いつも謙虚な縁の下の世話役を務めておられた」と言うように、松前の設立した望星学塾や英世学園の運営では献身的な仕事ぶりで尽力しました。
- 学園での活躍
松前、信子夫人、篠原登らと松前の自宅で開催した「聖書研究会(教育研究会)」に参加しました。望星学塾では実務を担当。1944(昭和19)年に実施された航空科学専門学校の第2期生入試を手伝うなど、松前の要請で学園運営も手伝っていました。敗戦直後に、松前は疲弊した日本の状況を農村青年教育によって復興させようと決意して財団法人英世学園を設立しました。英世学園は福島・磐梯と熊本・三角に教育機関を設置しました。大久保は理事に就任し、現地である福島に入り日本国民学舎開校の準備から運営を手がけました。大久保は1952(昭和27)年に病に倒れ半身不随となりましたが、教育活動を続け1965(昭和40)年に逝去しました。松前は一周忌に際して「大久保眞太郎碑」を建立しました(現在は多磨霊園から望星学塾敷地内に移設)。
- 関係資料
大久保眞太郎略歴
年 | 事 項 |
1894(明治27)年 | 北海道にて誕生 |
1914(大正3)年 | 東京府立第四中学校卒業後、応召し近衛歩兵第一連隊配属、陸軍看護学校入学 |
1916(大正5)年 | 除隊後、逓信省逓信官吏訓練所技術科入校 |
1919(大正8)年 | 逓信省逓信官吏訓練所技術科 卒業、逓信技手に任命 |
1925(大正14)年 | 逓信省工務局勤務 |
1929(昭和4)年 | 松前重義と知り合い聖書研究・教育研究など開始 |
1935(昭和10)年 | 望星学塾の運営に従事 |
1938(昭和13)年 | 逓信技師に任命 |
1945(昭和20)年 | 逓信省を依願退職、英世学園設立準備事務所に勤務 |
1946(昭和21)年 | 財団法人英世学園理事に就任、福島県において日本国民学舎(英世学園が設置)の設立準備・開校・運営に従事 |
1950(昭和25)年 | 英世学園本部(東京・丸ビル)に勤務 |
1952(昭和27)年 | 脳溢血で倒れる |
1965(昭和40)年 | 逝去。翌年、多磨霊園の墓所にて記念碑建立除幕 |
第3章 技術者運動と学園創設
技術者運動
戦前・戦中の日本の社会は指導者として法学部出身者を最優先する風潮が根強くありました。そのため、技術者の地位向上を訴える技術者運動が展開されました。逓信省内では工務局の梶井剛や松前などが中心になって技術者運動を展開しましたが、このころに逓信省経理局で運動を行っていたのが山田守です。逓信省内の技術者運動は逓信技友会を結成し、その後、各省の技術者運動の流れと統合し六省技術者協議会となり、さらに日本技術協会へと発展しました。運動の中心となった指導者が内務省土木局の技師、宮本武之輔です。内務省の土木技術官、直木倫太郎は著作で「人格の向上があって初めて技術は有用なものになる」と唱え、宮本をはじめとする技術者運動の担い手たちに影響を与えました。
この考えは、宮本、梶井、松前たちにより「理科系統の学生に法、経の授業科目を、文科系統の学生に科学及技術の授業科目を追加し以て総合教育の実を挙げること」(日本技術協会「総合国防技術政策実施綱領」)など技術教育・工業教育に関する意見として反映され、文理融合という東海大学の教育理念の一つになっていきます。
山田守
生没年 | 1894(明治27)年 4月19日 ~ 1966(昭和41)年 6月13日 |
出身地 | 岐阜県羽島郡上中島村(現・羽島市) |
来 歴 | 建築家。技術官僚。東京帝国大学在学時に同級生らと、新たな建築様式の創造をめざし「分離派建築会」を結成。大学卒業後、逓信省営繕課に入り、多くの電信局・電話局・病院(逓信建築)を設計。関東大震災後は復興院橋梁課から嘱託を受け、震災復興橋梁(永代橋・聖橋など)のデザインも担当。京都タワービルや日本武道館の設計者として著名 |
- 松前との出会い
逓信省内の技術者運動は、工務局の梶井剛・松前を中心に行われました。山田は経理局営繕課から運動に参加していました。運動が逓信省内から、さらに日本技術協会に移ると、松前と山田はともに常務理事として活躍し盟友となりました。
松前は、山田が逝去した時、「大事業の達成は友情と信頼の中においてはじめて可能であります」と、山田との友情と信頼が学園の建設と発展につながったことを語っています。一方山田は松前の理想に共鳴し、その友情と寄せられた絶対的な信頼に対して学園に関わる建築では設計料をとらなかったと言われています。渋谷キャンパス(旧・代々木キャンパス)1号館が落成した時、山田は「松前さんの理想は高く、哲学もまた深い。しかし、残念ながら金がない。」と言って皆を笑わせたエピソードが残っています。二人の強い友情の奥ゆかしい表現でした。
- 学園での活躍
学園創立から建設部門を担当し、逝去するまで学園施設の建物のほとんど全てを設計しました。1949(昭和24)年、松前は公職追放のため不在で学園が困窮している時期には、東海科学専門学校(戦後に航空科学専門学校・電波科学専門学校が合併)建築科最後の卒業生たちは静岡・清水での授業が不可能な状態になり、山田が自費で学生30余名を引き受けて東京で教育し面倒をみて卒業させています。1951(昭和26)年に学校法人東海大学理事および東海大学工学部建設工学科主任教授に就任。建築工学科教授陣は山田が集めました。
その後、代々木校舎(現・渋谷キャンパス)や湘南キャンパス、付属諸学校に多数の校舎を設計。山田は、設計から工事の管理・指導はもちろん、土地の確保や建築資材や資金の調達、役所との交渉など、多岐にわたって奔走しました。特に湘南校舎は、全体計画も含めて設計し、キャンパスそのものが山田の作品と呼べるもので、山田の遺作になりました。湘南キャンパスは、近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織「DOCOMOMO」の日本支部「DOCOMOMO Japan」から「日本におけるDOCOMOMO135選」に「東海大学湘南キャンパスと校舎群」として2008年に選定されました。
- 関係資料
山田守略歴
年 | 事 項 |
1894(明治27)年 | 岐阜県羽島郡上中島村(現・羽島市) に誕生 |
1907(明治40)年 | 岐阜県立大垣中学校入学 |
1912(大正元)年 | 岐阜県立大垣中学校 卒業 |
1913(大正2)年 | 第四高等学校第二部甲類入学 |
1917(大正6)年 | 第四高等学校卒業、東京帝国大学工科大学建築学科入学 |
1920(大正9)年 | 分離派建築会結成、東京帝国大学工科大学建築学科卒業。逓信省入省、営繕技師に任命 |
1928(昭和3)年 | 復興院橋梁課から嘱託、震災復興橋梁(永代橋・聖橋など)の設計に従事 |
1940(昭和15)年 | 逓信省経理局営繕課長に就任 |
1945(昭和20)年 | 逓信省を退官 |
1949(昭和24)年 | 山田建築事務所を開設 |
1951(昭和26)年 | 学校法人東海大学理事・東海大学工学部建設工学科主任教授に就任 |
1964(昭和39)年 | 設計した日本武道館、京都タワービル竣工 |
1966(昭和41)年 | 東海大学湘南校舎建設中に逝去 |
宮本武之輔
生没年 | 1892(明治25)年1月5日 ~ 1941(昭和16)年12月24日 |
出身地 | 愛媛県和気郡興居島(現・松山市) |
来 歴 | 土木工学者、技術官僚。工学博士。東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手、内務技師となり、1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた技術官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者運動」の先駆的リーダー。東京帝国大学工学部教授を兼任、興亜院技師・技術部長、企画院次長を歴任した。 |
- 松前との出会い
技術者運動の指導者であった宮本と逓信省内で技術者運動の中心人物の一人であった松前との出会いは、松前が本格的に技術者運動に関わっていくようになった1934(昭和9)年以降と思われます。この時期は無装荷ケーブル通信方式の実用化によって技術の完全国産化が進んだ時期にあたり、宮本が中心となって技術者の地位向上をめざして創立した日本工人倶楽部は、1935(昭和10)年1月、日本技術協会と改称して会員の拡大を図り、松前たちの活動が合流していきました。
- 学園創立構想
日本技術協会は、梶井剛や松前ら技術官僚からなる国防技術委員会を設置しました。そこで話し合われた各分野の革新的技術体制案を、技術者運動の指導者であった宮本が集めて全体調整し、1940(昭和15)年9月に「総合国防技術政策実施綱領」にまとめて政府へ具申したことが「科学技術」という言葉が広まるきっかけになりました。その中で、技術教育・工業教育の改善のほかにも科学技術行政機構の創設、科学技術系研究機関の統合整備、科学技術審議会の設置が提起されています 。
この考えが、梶井、宮本、松前による1941年2月に公表された 国防理工科大学の設立計画、学園創立構想が具現化するきっかけになりました。宮本はその後すぐ逝去しましたが、技術者運動の指導者宮本の役割は、逓信省工務局長であった松前が受け継ぎ、戦後に画期的な原子力基本法制定や科学技術庁設置における衆議院議員松前の活躍につながっているのです。
- 関係資料
宮本武之輔略歴
年 | 事 項 |
1892(明治25)年 | 愛媛県和気郡興居島(現・松山市)で誕生 |
1910(明治43)年 | 私学錦城中学校卒業、第一高等学校入学 |
1914(大正3)年 | 東京帝国大学工科大学土木工学科入学 |
1917(大正6)年 | 東京帝国大学工科大学土木工学科卒業、内務省土木局入省 |
1919(大正8)年 | 内務省技師に任官 |
1920(大正9)年 | 「日本工人倶楽部」を発足 |
1928(昭和3)年 | コンクリートに関する研究で工学博士号取得 |
1935(昭和10)年 | 「日本工人倶楽部」 を「日本技術協会」に改称 |
1937(昭和12)年 | 東京帝国大学教授(河川工学)に就任(兼任) |
1938(昭和13)年 | 興亜院の技術部長に就任 |
1941(昭和16)年 | 企画院の次長に就任。逝去 |
学園創設
国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くし、具現化したのが本学の創設計画です。1941(昭和16)年2月22日、新聞各紙において、宮本武之輔、梶井剛、松前を発起人とする国防理工科大学の設立計画が報じられました。この計画の第一期が航空科学専門学校の設置です。1942(昭和17)年12月8日に財団法人国防理工学園設立と航空科学専門学校開設が認可され、学園が創立されます。翌1943(昭和18)年4月8日に航空科学専門学校が静岡県清水市(現・静岡市清水区)で開校しました。翌月には牧野不二雄(物理学科長)らが赴任し、航空科学専門学校の教育体制が整っていきました。翌年、学園では東京に電波科学専門学校も開校しました。
1941(昭和16)年から始まったアジア太平洋戦争によって国内情勢が逼迫する中、危機感を募らせていた松前は、我が国の生産力調査を行いその問題点を明らかにしたうえで早期の和平工作を唱え、東條英機内閣を強く批判します。1944(昭和19)年7月、松前は懲罰召集を受け二等兵として戦地に送られてしまいました。これにより、私塾であった望星学塾の活動は休止を余儀なくされてしまいます。松前の召集から2ヵ月半後、学園は財団法人電気通信工学校を吸収合併し、規模を拡大していきました。
牧野不二雄
生没年 | 1905(明治38)年7月11日 ~ 1992(平成3)年1月13日 |
出身地 | 東京府豊多摩郡千駄谷村(現・東京都渋谷区) |
来 歴 | 数学者、教育者。東北帝国大学理学部数学科を卒業後、東京開成中学校教諭、日本大学工学部予科教授を経て、1943(昭和18)年から航空科学専門学校教授に着任。旧制東海大学では第二予科長を務め、新制東海大学で初代工学部長に就任。学園理事、副学長、学長、短期大学部学長などを歴任 |
- 松前との出会い
牧野の父はキリスト教の牧師で、熊本市内にあった九州学院神学部(現・ルーテル学院大学)の開設に尽力しました。その1期生の教え子が本田傳喜です。本田の妻安子は松前の姉で、松前にとって本田は義兄にあたります。牧野の自宅が松前家と近隣であったこともあって本田夫妻を通じて幼少より松前家とは家族ぐるみのつきあいをしていました。牧野は松前の4年後輩の同じ白川小学校、熊本中学校(現・熊本高等学校)の卒業生でした。松前と同じ東北帝国大学を卒業の後、しばらくして日本大学工学部講師として勤務していました。1943(昭和18)年4月、松前から突然電話がかかってきて、航空科学専門学校教授の依頼を受けたことから、学園に着任することになりました。
- 学園での活躍
航空科学専門学校開校まもなくして着任し、物理学科長として数学を担当。1948(昭和23)年に旧制東海大学の第二(理科)予科長に就任しました。新制東海大学設置、学園の存続に濱田成徳や篠原登らとともに事務局として尽力し、1953(昭和28)年に副学長、1956(昭和31)年に付属図書館長、1963(昭和38)年学園理事に就任。その間、東海実業高等学校や東海大学高等学校、東海大学第一中学校など付属諸校の校長も兼任して務めています。
学園の発展期とも言える1970年代は大学の教務・学務部門を取りまとめ、東海大学工芸短期大学(北海道旭川市、のちの北海道東海大学の前身)、短期大学部などの高等教育機関の副学長や学長を務めています。1975(昭和50)年には東海大学学長代行として病に倒れた篠原登学長を支え、1978(昭和53)年には篠原から学長を引き継ぎました。その後も付属本田記念幼稚園長や短期大学部学長など学園内の要職を歴任しました。1992(平成3)年、牧野逝去の際、総長松前達郎は「清廉誠実で故松前(重義)総長の片腕として最後まで東海大学のために尽くされた」と学園葬で牧野について語っています。
- 関係資料
牧野不二雄略歴
年 | 事 項 |
1905(明治38)年 | 東京府豊多摩郡千駄谷村(現・東京都渋谷区) で誕生 |
1918(大正7)年 | 熊本県立熊本中学校 入学 |
1924(大正13)年 | 熊本県立熊本中学校卒業 |
1927(昭和2)年 | 第五高等学校理科甲類卒業、京都帝国大学理学部物理科入学 |
1928(昭和3)年 | 京都帝国大学退学 |
1931(昭和6)年 | 東北帝国大学物理部数学科入学 |
1934(昭和9)年 | 東北帝国大学物理部数学科卒業、東京開成中学校教諭に就任 (~1939年) |
1939(昭和14)年 | 日本大学工学部予科教授兼学部講師に就任(~1943年) |
1943(昭和18)年 | 航空科学専門学校教授兼物理学科長に就任 |
1945(昭和20)年 | 東海専門学校・東海科学専門学校教授兼教務課長に就任 |
1946(昭和21)年 | 旧制東海大学予科教授に就任 |
1949(昭和24)年 | 旧制東海大学理工学部教授に就任 |
1950(昭和25)年 | 東海大学工学部長に就任(~1954年) |
1952(昭和27)年 | 東海実業高等学校長(~1961年)、東海大学高等学校長 (~1957年) 、 東海大学第一中学校長 (~1961年) に就任(兼務) |
1953(昭和28)年 | 東海大学副学長に就任(~1956年) |
1956(昭和31)年 | 東海大学学務部長・東海大学付属図書館長に就任(~1957年) |
1963(昭和38)年 | 学校法人東海大学理事に就任 |
1972(昭和47)年 | 東海大学学長(短期大学部担当)に就任(~1975年) |
1978(昭和53)年 | 東海大学学長 に就任(~1982年) |
1981(昭和56)年 | 東海大学付属本田記念幼稚園長に就任(~1987年) |
1985(昭和60)年 | 東海大学短期大学部学長に就任 |
1992(平成3)年 | 逝去 |
第4章 学園の苦難
学園解散の危機
戦後の松前の歩む道は多難でした。1946(昭和21)年、学園は松前が念願していた文理融合を理念とする旧制東海大学を開学します。松前は、「ここにようやく、私の夢が実現した。私は嬉しくて、たまらなかった」と、述べています。しかし、松前はすぐに日本を占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で、戦時中に大政翼賛会の活動に関わっていたとを理由として公職・教職追放になってしまいました。このため、発足したばかりの東海大学の運営に携わることができなくなりました。ここに至り学園は、戦後の価値観の変化や社会的・経済的・思想的混乱のなかで松前を失い、さらに学園理事長で学長の梶井剛も追放の指定を受け、二本の主柱を失います。戦後の劣悪な経済状況と学制改革により、他に新制大学が発足したことで東海大学の学生数は激減します。教職員は給与の遅配もあり一人また一人と学園を去っていき、一時は学園解散の危機に瀕するほどになりました 。
解散の報が伝わると、松前の東北帝国大学の恩師抜山平一は、「何とかして解散を中止して、創立者松前の追放解除後、松前の手によって再建せしめなければならない。もし解散をするにしても松前の手によって解散せしめるべきである。その他の人の手によって解散することは穏当でない。」と申し入れました。抜山の言葉は解散回避の機運を盛り上げ、松前の古くからの友人である濱田成徳が、1948(昭和23)年に理事長・学長を引き受け、松前の復帰まで学園の存続を図りました。東海大学も新制大学に移行するため、濱田のほか、篠原登、牧野不二雄などが尽力します。1950(昭和25) 年にようやく新制大学として設立認可が下り、文学部と工学部を有する新制東海大学が正式に誕生します。松前の理想に共鳴する多くの人々によって大学は支えられ、再建への努力が続けられました。
抜山平一
生没年 | 1889(明治22)年9月23日 ~ 1965(昭和40)年8月18日 |
出身地 | 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区) |
来 歴 | 電気工学者。工学博士。東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後、東北帝国大学工学専門部講師に着任。1919(大正8)年に東北帝国大学教授に就任し、以後、同大学工学部長、付属電気通信研究所初代所長を歴任した。戦後は電波管理委員会委員のほか電波技術審議会長、電気学会会長などの要職を務めた。 |
- 松前との出会い
東北帝国大学3年の松前が卒業研究の指導を抜山に仰いだのがきっかけでした。当時、東北帝国大学の電気工学科には若手の気鋭研究者として、八木秀次(八木・宇田アンテナの発明者)と抜山平一がいました。八木は親切で学生たちに人気があった一方、抜山は研究者然として無愛想で不人気だったようです。20名のクラスメートのうち、19名が八木の指導を希望していることを知った松前は、一人進んで抜山の指導を受けることになったといいます。抜山は厳格な姿勢で松前を徹底的に鍛え、その結果、科学者としての松前を育てることになったのです。松前は抜山の家族とも親しくなって、夫人から非常に可愛がられたと述懐しています。
- 学園での活躍
終戦後、松前は公職・教職追放を受けて学園の運営に携わることができなくなりました。敗戦後の厳しい世相とともに、学制改革による情勢の変化は、学園の経営を破綻寸前へと追い込みました。学園解散の報が伝わると、抜山は「解散するにしても松前の手によって解散せしめるべきである」と申し入れたといわれます。その結果、濱田成徳が学園理事長に就任して解散が回避されました。この時分から抜山は濱田を自分の後継者として東北大学に誘っていたようで、実際に1950(昭和25)年から濱田は東北大学教授に就任しています。学園は松前の恩師と友人とにより救われました。日本の電気工学を代表する研究者であった抜山は、1949年新制東海大学設立認可申請にあたり、工学部電気工学科担当の兼任講師に就任する同意書が残っていることから、東海大学の存続と設立のため尽力したことが窺えます。高弟の松前と後継者である濱田に対する思いやりが伝わります。
- 関係資料
抜山平一略歴
年 | 事 項 |
1889(明治22)年 | 東京府東京市本郷区(現・東京都文京区) で誕生 |
1913(大正2)年 | 東京帝国大学工科大学電気工学科卒業、東北帝国大学工学専門部講師に就任 |
1917(大正6)年 | 電気機械工学一般研究のためアメリカ、イギリス、フランスへ留学(~1919年) |
1919(大正8)年 | 東北帝国大学教授兼東北帝国大学付属工学専門部教授に就任 |
1924(大正13)年 | 工学博士号取得 |
1932(昭和7)年 | 東北帝国大学工学部長に就任 |
1935(昭和10)年 | 東北帝国大学付属電気通信研究所創設、所長に就任(~1950年) |
1939(昭和14)年 | 電気通信学会長に就任(~1940年) |
1950(昭和25)年 | 郵政省電波技術審議会会長に就任 |
1951(昭和26)年 | 慶應義塾大学客員教授に就任 |
1952(昭和27)年 | 東北大学名誉教授号を授与される。マイクロ波通信研究委員会委員長に就任 |
1956(昭和31)年 | 科学技術庁電子工業技術委員会委員長に就任 |
1958(昭和33)年 | エレクトロニクス協議会教育委員会委員長に就任 |
1965(昭和40)年 | 逝去 |
濱田成徳
生没年 | 1900(明治33)年9月21日 ~ 1989(平成元)年7月1日 |
出身地 | 群馬県前橋市 |
来 歴 | 科学者、教育者、官僚。日本で最初に酸化物陰極を研究し多量生産方法を1928年に完成させた。東京電気株式会社(現在の株式会社東芝)電子工業研究所長、同社理事、電子技術審議会会長、NHK経営委員会長、日本科学技術情報センター長、エレクトロニクス協議会長などを歴任。東京女子大学理事長にも就任した。 |
- 松前との出会い
濱田は母方の伯母が内村鑑三の先妻であり、旧制第一高等学校で先輩の内村子息祐之が聖書研究会の講演に誘ったことをきっかけに聖書研究会に参加していました。この時には松前とは面識はありませんでしたが、内村死後の1933(昭和8)年ごろに『内村鑑三全集』の「月報」に短文が掲載されたことから、松前から連絡があったと濱田は述べています。この時すでに濱田は真空管の研究者として知られる存在で、無装荷ケーブル通信方式を研究していた松前とは内村鑑三門下として、また電気工学者としての共通点からたちまち共鳴したのです。濱田は「われわれの出会いは、聖書とエレクトロニクスにあった」と述懐しています。その後、松前と濱田は、互いの家を行き来し、夜を徹して話し合うようになりました。
- 学園での活躍
公職・教職追放中の松前が教育にたずさわることができず学園が困難を極めた時期、濱田は、1948(昭和23)年11月25日に財団法人東海大学理事長に就任し、翌年4月1日に旧制東海大学学長に就任しました。
このときの学園は、大学運営方針に不満や生活苦と将来への危惧などから多くの教員が学園を去り、また学生たちも学制の変更や学園の混迷ぶりに将来への不安を感じ東海大学を去って行く学生が多数おり、末期的状況でした。そうしたなか残った教職員や学生の努力で、遅れていた新制東海大学の設立認可申請が1949(昭和24)年9月10日に行われました。濱田は学園理事・篠原登や第二予科長・牧野不二雄らと共に学園の存続を図り、大学を蘇生させた濱田の功績は大きなものでした。
1950(昭和25)年2月20日に新制東海大学の設立認可が下り、同年4月1日に文学部と工学部を有する新制東海大学が正式に発足。翌1951年には理事長濱田成徳名で財団法人東海大学から学校法人東海大学への組織変更の認可が下り、本学が現在ある形に成立させましたが、学園の経営状況はますます困窮を深めていきました。
1951(昭和26)年10月5日に松前が教職追放解除となり、翌1952年1月15日に役割を果たした濱田は職を辞し、松前が学園理事長に就任したのです。この時の濱田との友情に泣いた松前は詩歌「友情の歌」を作り、これは現在学園歌となっています。
学園理事長と東海大学学長の職を辞した濱田は郵政省電波管理局長に就任。松前が教育の機会均等を目指したFM 実験局(のちのFM東海、現・エフエム東京)の開設には、濱田から多大な助力を得て免許認可されました。その後、濱田は学園理事として1989(平成元)年7月1日に逝去するまで学園発展に尽力したのです。
- 関係資料
濱田成徳略歴
年 | 事 項 |
1900(明治33)年 | 群馬県前橋市で誕生 |
1918(大正7)年 | 茨城県立水戸中学校卒業、第一高等学校入学 |
1921(大正10)年 | 第一高等学校入卒業、東京帝国大学工学部入学 |
1925(大正14)年 | 東京帝国大学工学部電気工学科卒業 |
1927(昭和 2)年 | 東京電気株式会社(現在の株式会社東芝)に入社 |
1942(昭和17)年 | 東京電気株式会社(現在の株式会社東芝)電子工業研究所長に就任 |
1946(昭和21)年 | 電気通信技術振興委員会会長に就任 |
1948(昭和23)年 | 財団法人東海大学理事長、東海大学学長、電気通信学会会長に就任 |
1949(昭和24)年 | 東北大学電気通信研究所教授、日本学術会議会員に就任 |
1952(昭和27)年 | 学校法人東海大学理事長、東海大学学長を辞職 |
1955(昭和30)年 | 郵政省電波管理局長に就任(~1959年) |
1956(昭和31)年 | テレビジョン学会会長に就任 |
1959(昭和34)年 | 日本放送協会経営委員(~1967年)、日本原子力研究所技術相談役(~1965年)に就任 |
1964(昭和39)年 | エレクトロニクス協議会会長に就任 |
1965(昭和40)年 | 電子技術審議会会長(~1970年)、日本科学技術情報センター理事長に就任 |
1967(昭和42)年 | 東京女子大学理事長に就任 |
1968(昭和43)年 | NHK放送技術審議会委員、日本情報処理センター理事、地域開発研究所理事に就任 |
1969(昭和44)年 | 電波技術審議会会長に就任(~1975年) |
1971(昭和46)年 | 医療技術研究開発財団理事長に就任 |
1989(平成元)年 | 逝去 |
東京移転
1951(昭和26)年、教職追放から解除(公職追放解除は前年)された松前は直ちに学園に復帰。翌年には濱田成徳から理事長・学長を引き継いで、学園復興のために山田守らと大学の将来計画について相談し、東京移転の決断をします。大学が静岡・清水にあっては、地理的条件から教員確保が困難であるといった様々な制約から、学園の発展には限界があるという判断でした 。
清水の駒越にあった校舎を静岡県へ売却しましたが、借金返済後の残金では東京に新たな土地、建物を取得するのは至難の業でした。移転先探しは困難を極めましたが、渋谷区代々木富ヶ谷にあり同じく経営難であった名教高等学校の経営母体である名教学園と本学が合併する形をとり、同地を買収することで解決を図ります。その時には梶井剛が現地を視察して、最終的に移転先を現在の渋谷キャンパス(旧・代々木校舎)に決定しました。1955(昭和30)年、東海大学は建学の地・清水から東京・渋谷(代々木)の地に、まずは工学部が移転しました。
第5章 学園の再建と拡充
学園再建と先駆的な教育研究
代々木校舎(現・渋谷キャンパス)では、山田守が新たな校舎の設計建設を行いました。1号館、2号館の建設は資金面で大変苦労し、山田も奔走した結果、各所への借り入れ、工事費の立て替え、学校債の発行で賄われました。2号館の完成した1958(昭和33)年には文学部も移転し、東海大学の東京移転が完了します。移転後の学園は、松前と同志たちの獅子奮迅の活躍で再建を果たします。
本学の教育の中核をなす講義として位置づけられている「現代文明論」も始められ、原子力の平和利用を掲げて原子力技術者を養成する工学部応用理学科原子力工学専攻を新設、教育の機会均等をめざしてFM 実験局(のちのFM東海、現在のエフエム東京)を開設するなど、先駆的な教育研究を行いました。FM放送の免許認可には、当時郵政省電波管理局長であった濱田成徳の助力もありました。
学園の拡充
日本は高度経済成長期に入り、進学率が増加していきました。東海大学でも学部や学生数が急増し、代々木校舎(現・渋谷キャンパス)では手狭になり、新たなキャンパスの必要性に迫られました。松前と山田守が候補地の視察を行い、現在の湘南キャンパスの地を選定します。松前はこの地を東海大学の永遠の礎となる新しいキャンパスとすべく、施設を整え、総合大学としての機構の充実を図りました。山田は、松前の構想を具現化すべく、キャンパスのグランドデザインと建物の設計を担っただけでなく、土地の確保、建築資材や資金調達、役所との交渉など多岐にわたり奔走したのです。1963(昭和38)年に湘南キャンパスを開設し、ここが学園の発展・拡充の拠点となりました。
さらに1962(昭和37)年に、静岡・清水に日本で唯一の学部である海洋学部を開設し、建学の地に里帰りします。1965(昭和40)年になると、科学技術庁次長など科学技術関係の公職を歴任していた篠原登が東海大学事務局長に就任し、また京都大学を退官した足利惇氏が東海大学文学部長に就任するなど、松前の同志たちが本格的に学園・大学運営に携われるようになりました。篠原と足利の学園・大学運営への復帰・参加は、拡充をつづける学園と松前にとって大きな援軍となったのです。
各地に教育機関を開設し、総合大学としての陣容を整えて規模を拡大する学園は、1967(昭和42)年には、東海大学学長に足利惇氏が就任して、松前は総長・理事長、篠原登が副理事長として学園全体を統括することになりました。1975(昭和50)年には篠原が学長に就任、さらに1978(昭和53)年には牧野不二雄が学長に就任しました。その間、学園紛争など大きな嵐が吹き荒れることもありましたが、松前と同志たちは、困難を乗り越えて学園をさらに発展・拡充させていったのです。
参考文献
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 通史篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 部局篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学七十五年史編集委員会『東海大学七十五年史 通史篇』(学校法人東海大学、2018年)
- 松前文庫編集委員会『松前文庫』第1~100号(東海教育研究所、1975~2001年)
- 『東海大学新聞』(東海大学新聞部・東海大学新聞会・東海大学新聞編集委員会、1955~2021年)
- 松前重義『松前重義 わが昭和史』(朝日新聞社、1989年)
- 松前重義『松前重義 わが人生』(東海大学出版会、1990年)
- 松前信子『欅と竜胆―夫・重義とともに歩む』(東海大学出版会、1990年)
- 大淀昇一『宮本武之輔と科学技術行政』(東海大学出版会、1989年)
- 大淀昇一『近代日本の工業立国化と国民形成』(すずさわ書店、2009年)
- 宮本武之輔『宮本武之輔日記』(社団法人電気通信協会東海支部、1971年)
- 篠原登『ひとりの心』(悠山社書店、1968年)
- 梶井剛『永日閑話』(電経新聞社、1963年)
- 梶井剛追悼事業委員会編『梶井剛追想録』(電気通信協会、1977年)
- 建築家山田守展実行委員会編『建築家山田守作品集』(東海大学出版、2006年)
大変見応えがあり、勉強になりました。
東海大学関係の方々には、是非見て頂きたい企画展と思います。
次回も楽しみにしております。
ありがとうございました。
コロナ禍で地域医療を必死に守っています。関西在住であり母校とは遠い存在になりましたが、青春真っただ中に湘南キャンパス・伊勢原キャンパスに居ました。松前先生の”建学の精神”
若き日に汝の思想を培え
若き日に汝の体軀を養え
若き日に汝の智能を磨け
若き日に汝の希望を星につなげ と、伊勢原キャンパスで学んだ”科学とヒューマニズムの融和”を50歳半ばを超えた自分を振り返り、
しっかり、Tokai colorに染まっていることを自覚しました。
今、湘南は遠い地ですが、母校を想う気持ちになれてとても良かったです。
昭和59年度に第一高等学校を卒業しました。卒業式で松前重義先生に握手いただいたことを昨日のことのように覚えています。