大久保眞太郎

生没年 |
1894(明治27)年10月20日 ~ 1965(昭和40)年3月8日 |
出身地 |
北海道 |
来 歴 |
逓信技師、教育者。英世学園理事。東京府立第四中学校卒業後、応召し近衛歩兵第一連隊配属。除隊後、逓信技手に従事。その後、逓信技師に任じられ、1945(昭和20)年に高等官四等に叙任されるも退官。戦後復興に際し松前構想に感銘かつ共感し、英世学園設立運営に尽力。 |
松前と大久保の住宅が杉並区阿佐ヶ谷にあり、共に逓信省工務局電話課に通勤していたことから懇意となりました。松前、
篠原登らとともに聖書研究会に参加し、キリスト教に傾倒しました。松前は大久保について、信仰によっても結ばれる「長い間の心の友であり、真実の友であった」人物と述べています。また、松前が「いつも謙虚な縁の下の世話役を務めておられた」と言うように、松前の設立した望星学塾や英世学園の運営では献身的な仕事ぶりで尽力しました。
松前、
信子夫人、
篠原登らと松前の自宅で開催した「聖書研究会(教育研究会)」に参加しました。望星学塾では実務を担当。1944(昭和19)年に実施された航空科学専門学校の第2期生入試を手伝うなど、松前の要請で学園運営も手伝っていました。敗戦直後に、松前は疲弊した日本の状況を農村青年教育によって復興させようと決意して財団法人英世学園を設立しました。英世学園は福島・磐梯と熊本・三角に教育機関を設置しました。大久保は理事に就任し、現地である福島に入り日本国民学舎開校の準備から運営を手がけました。大久保は1952(昭和27)年に病に倒れ半身不随となりましたが、教育活動を続け1965(昭和40)年に逝去しました。松前は一周忌に際して「大久保眞太郎碑」を建立しました(現在は多磨霊園から望星学塾敷地内に移

大久保眞太郎碑建立 (1966年多磨霊園において)
関係資料は第2章の「▼大久保眞太郎」を開いてご覧ください。
大久保眞太郎略歴
年 |
事 項 |
1894(明治27)年 |
北海道にて誕生 |
1914(大正3)年 |
東京府立第四中学校卒業後、応召し近衛歩兵第一連隊配属、陸軍看護学校入学 |
1916(大正5)年 |
除隊後、逓信省逓信官吏訓練所技術科入校 |
1919(大正8)年 |
逓信省逓信官吏訓練所技術科 卒業、逓信技手に任命 |
1925(大正14)年 |
逓信省工務局勤務 |
1929(昭和4)年 |
松前重義と知り合い聖書研究・教育研究など開始 |
1935(昭和10)年 |
望星学塾の運営に従事 |
1938(昭和13)年 |
逓信技師に任命 |
1945(昭和20)年 |
逓信省を依願退職、英世学園設立準備事務所に勤務 |
1946(昭和21)年 |
財団法人英世学園理事に就任、福島県において日本国民学舎(英世学園が設置)の設立準備・開校・運営に従事 |
1950(昭和25)年 |
英世学園本部(東京・丸ビル)に勤務 |
1952(昭和27)年 |
脳溢血で倒れる |
1965(昭和40)年 |
逝去。翌年、多磨霊園の墓所にて記念碑建立除幕 |
略歴典拠 英世学園認可申請書類内「大久保眞太郎履歴書」、「大久保真太郎先生・その人間と信仰」(『松前文庫』第7号、1976年)
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